第141回・BunDoku読書会

 

日時:2024年11月24日(日)10:00~11:30

会場:ホルトホール大分410会議室

参加者:9名

 

事務局の江藤です。第141回目の読書会として、課題図書を読んで感想を話しあう会を開催しました!初参加の方1名を迎え、9名での開催となりました。

 

課題図書は、高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』。第167回芥川賞を受賞した話題作です。

 

主な登場人物は二谷と押尾のふたりですが、それぞれのパートが切り替わる構成になっています。参加者からは「二谷のパートと押尾のパートでカメラの位置(視点)が違う」「二谷のパートは三人称視点でありながらモノローグが聞こえる」という指摘がありました。

 

二谷のパートナー選びについては「芦川さんは正解だった。自分は正解を選んでいる、と二谷には分かっていた」(p.29)という一節が取り上げられました。一方で食事については「なるべくちゃんとしていない、体に悪いものだけが、おれを温められる」(p.123)という一節があり、正解に執着しながらも不正解に癒される二谷の分裂が話題になりました。

 

「押尾さんが負けて芦川さんが勝った。正しいか正しくないかの勝負に見せかけた、強いか弱いかを比べる戦いだった。当然、弱い方が勝った」(p.138)という描写については、いわゆる不条理劇だという指摘がありました。

 

それではなぜ弱い方が勝つ(正しい)のか。参加者からは「芦川さんは犠牲を払っている」という意見がありました。ここでいう「正しさ」を「信念の強さ」としてみると、犠牲を払えば払うほどますます信念が強くなるということがあるのかもしれません。

 

弱さとは、強さがないという意味ですでに犠牲を払った状態で、したがって強い信念(正しさ)を生むのではないでしょうか。もちろん、そこで犠牲とされている強さはもともと持っていなかったものなので、この考え方は倒錯しているといえます。しかしこの倒錯こそが、弱い方が勝つ(正しい)という不条理を生むのかもしれません。

 

そのほか、おいしさは一体どこにあるのかということが話題になりました。たとえばタイトルについて、おいしい(形容詞)だとごはんを修飾することになり、おいしく(副詞)だと食べるを修飾することになるので、前者の方が食べ物の側に、後者の方が自分の側においしさがある感じがします。

 

「みんなで同じものを食べても自分の舌で感じている味わいの受け取り方は絶対みんなそれぞれ違っているのに、おいしいおいしいって言い合う、あれがすごく、しんどかったんだなって、分かって」(p.142)という一節がありますが、自分の側にあるはずのおいしさを、みんなで共有できるもの、すなわち食べ物の側にあるとするしんどさを描いているのではないでしょうか。

 

今回も、新しい読み方が発見されたり発明されたりする面白い会になったと思います。ご参加いただいた皆さま、楽しい時間をありがとうございました。またのご参加をお待ちしております!